六 領土編入措置の完了 (明治二十八年)
それからしばらくの間、本件を扱った公文書は見あたらない。これがあらわれるのは七カ月後の十二月十五日であ
るが、この文書『久場島魚釣島へ所轄標坑建設之義上申』(内務省秘別一三三号)は、後に閣議へ提出される。
右の公文書は、別紙に閣議提出案を付し、本文で閣議に堤出する理由をのべているが、その理由として、次の三
つ、すなわち、(一)明治十八年当時と今日とでは大いに事情が異なること、(二)海軍省水路部員の口陳によると魚 釣久場の二島は別にこれまでいずれの領土とも定まっていないようであること、(三)地形上からみても、当然沖繩群 島の一部と認められること、をあげている。
秘別一三三号
明治廿七年十二月十五日
久場島魚釣島へ所轄標杭建設之義上申
沖繩縣
本件ニ関シテハ別紙ノ通明治十八年中伺出候共清國ニ交渉スルヲ以テ外務省卜御協議ノ末達設ヲ要セサル旨指
令相成其旨太政官ニモ内申相成侯處其当時卜今日トハ大ニ事情ヲ異ニ致候ニ付標杭建設ノ義御聞届ノ積リヲ以テ 左案相伺候
(本文魚釣島久場島ニ関スル地理ノ沿革等遂調査侯得共何分其要綱ラ得ス海軍省水路部二百十号地図ノ八重
山島ノ東北方和平山及釣魚島ノ二島ハ右ニ該当スルモノノ加シ而メ同部員ノ口陳ニ依レハ右二島ハ別ニ従来何レノ 領土トモ定マラサル趣ニ有之地形上沖繩群島中ノ一部卜認ムヘキハ当然ノ義卜被考候間先以テ本文ノ通取調侯)
閣議堤出案
別紙標坑建設ニ関スル件閣議提出ス
年 月 日
大 臣
総理大臣宛
(別紙)
沖繩縣下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ハ従来無人島ナレトモ近来ニ至リ骸島へ向ケ漁業等ヲ試ムル
者有之之レカ取締ヲ要スルヲ以テ仝縣ノ所轄トシ標杭建設致度旨同縣知事ヨリ上申ノ通リ標坑ヲ建設セシメントス
右閣議ヲ請フ
右の文書が作成されてから十日余を過ぎた十二月二十七日、内務大臣(野村靖)は、本件(秘別第一三三号)の
閣議堤出方について、外務大臣(陸奥宗光)と協議した。
秘別第一三三号
久場島魚釣嶋へ所轄標坑建設ノ義別■甲号之通リ沖繩縣知事ヨリ上申候處本件ニ関シテ別■乙号ノ通リ明治十
八年中貴省卜御協 議ノ末指令及ヒタル次第モ有之候共其当時卜今日トハ事情モ相異侯ニ付別紙閣議堤出ノ見込 ニ有之侯条一應及御協議候也迫テ御回答ノ節別■御返戻有之度候也
明治廿七年十二月廿七日
内務大臣子爵 野村 靖 印
外務大臣子爵 陸奥 宗光 殿
別紙
閣議堤出案
別紙標杭建設ニ関スル件閣議提出ス
年 月 日
内務大臣
内閣総理大臣宛
(別紙)
沖繩縣下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島島(原ノママ)魚釣島ハ従来無人島ナレトモ 近来ニ至リ骸島へ向ケ
漁業等ヲ試ムル者有之之力取締ヲ要スルヲ以テ仝縣ノ所轄トシ標杭建設致度旨同縣知事ヨリ上申有之右ハ同縣ノ 所轄卜認ムルニ依り上申ノ通リ標杭ヲ建 設セシメントス
右閣議ヲ請フ
これに対して外務大臣は、翌明治二十八年一月十一日付『久場嶋及魚釣嶋へ所轄標枕建設ノ件』(親展送第二
号)をもって、別段異議なき旨を回答してきた。
明治廿八年一月十一日発遺
親展送第二号
外務大臣子爵 陸奥 宗光
内務大臣子爵 野村 靖 殿
久場嶋及魚釣嶋へ所轄標杭建設ノ件
久場島及魚釣島へ所轄標杭建設ノ議ニ付沖繩縣知事ヨリノ上申書及明治十八年中仝縣へノ指令案相添へ客年
十二月廿七日附秘別第一三三号ヲ以テ御照會ノ趣了承本件ニ関シ本省ニ於テハ別段異議無之候付御見込ノ通リ 御取計相成可然卜存候依テ右附属書類相添へ此段回答申進候也
そこで内務大臣は、翌一月十二日、内閣総理大臣に対して、本件につき閣議開催方を要請した。
秘別第一三三号
別紙標坑建設ニ関スル件閣議提出ス
明治二十八年一月十二日
内務大臣 野村 靖 印
内聞総理大臣伯爵 伊藤 博文 殿
標杭建設ニ関スル件
沖繩縣下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ハ往来無人島ナレトモ近来ニ至リ該島へ向ケ漁業等ヲ試ム
ル著有之之レカ取締ヲ要スルヲ以テ同縣ノ所轄トシ標坑建設致度旨同縣知事ヨリ上申有之右ハ同縣ノ所轄卜認ム ルニ依リ上申ノ通リ標杭ヲ建設セシメソトス
右閣議ヲ請フ
明治二十八年一月十二日
内務大臣子爵 野村 靖 印
かくして、一月十四日、閣議が開催され、次つような決定がたされた。
閣議決定
内閣総理大臣 花押
各 大臣 花押
明治二十八年一月十四日
別紙内務大臣請議沖繩縣下八重山群島ノ北西ノ位スル久場島魚釣島卜稱スル無人島へ向ケ近来漁業等ヲ試ムル
モノ有之為メ取締ラヲ要スルニ付テハ同島ノ湊ハ沖繩縣ノ所轄ノ認ムルヲ以テ標杭建設ノ儀仝縣知事上申ノ通許可 スヘシトノ件ハ別ニ差支スモ無之ニ付請譲ノ通二テ然ルへシ
指令案
標杭建設ニ関スル件請譲ノ通
明治二十八年一月二十一日
右の閣議決定によって魚釣、久場の両島が国際法上わが国の領土として正式に編入されたわけであるが、尖閣列
島を構成するその他の島々、すなわち、久米赤島、甫小島、北小島、沖の南岩、沖の北岩、飛瀬について、閣議決 定は直接には言及していない。
もっとも、久米赤島を除き、これらの小島、岩礁はすべて魚釣島の付近に散在するものである。しかも魚釣島の領
海三マイル)内に飛瀬がある、したがって飛瀬は当然にわが国の領土となるばかりでなく、それ自身も領海をもつこ ととなる。そうしてこの飛瀬の領海内に北小島が、同様に北小島の領海内に南小島と沖の南岩が、さらに沖の南岩 の領海内に沖の北岩がある。このように飛瀬を基点として考えた場合、魚釣島に対するわが国の領有意思は当然に これらの島々にも及ぶこととなるP。
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※P 奥原敏雄『尖閣列島の法的地位』「(季刊)沖縄」第五二号(一九七〇年三月)、一〇二−一〇三頁、参照。
※上の記事は「尖閣列島編入の経緯」(奥原敏雄) http://senkakujapan.nobody.jp/page058.html から。
大正島を除く他の島々は近年まで古賀辰四郎氏の子息善次氏の所有でありましたが、
現在は埼玉県の実業家・栗原國起氏の所有です。
島々に番地が付けられたのは一九〇二(明治三十五)年で、八重山大浜間切登野城村に
編入された。一九一四(大正三)年には石垣市登野城に改められました。
ユンク、黄尾嶼とも呼ばれ現在米軍射爆場となっている。 与那国の関係者探す 1970年7月、不法入域を防止する目的で尖閣諸島に警告板を設置した琉球政府(当時)の出入管理庁警備課長だっ た比嘉健次さん(84)=那覇市泉崎=が、設置作業に参加した与那国の関係者らを探している。 警告板は、台湾人の操業や上陸が多発していたことを受け、琉球政府が「尖閣諸島の各島に不法入域を防止する ための警告板の監督及び不法入域者の調査」を比嘉さんに命じて設置させた。 比嘉さんら設置班の一行は23人。厳しい自然環境下での作業を遂行するには尖閣諸島海域を熟知する屈強な船 員が必要だとして、カジキ突き漁を専門にしていた与那国の第三白洋丸(乗員14人、150トン)をチャーターした。 一行は7月8日から6日間で魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島で計7カ所に建てた。米国高等弁務官の命 によるとして「琉球列島住民以外の者が無害通行の場合を除き、入域すると告訴される」と警告した。 警告板は支柱を含めると重さ230キロ。陸揚げ作業に神経と労力を使ったほか、上陸用ボートが座礁して浸水する トラブルも発生するなど、作業は困難を極めたという。 比嘉さんは「苦労して設置した警告板も今では支柱を残すのみと聞くが、願わくば 作業班の面々と再会したい」と話している 警告板(魚釣島北岬)
撮影日 1977年 08月 02日 本文 尖閣諸島魚釣島に琉球政府によって当時建てられた領有宣言の看板。(沖縄県で1977年8月2日)
昭和45年(1969)5月15日石垣市長石垣喜興に提出された「尖閣群島標柱建立報告書」の中に
「石垣市長の命を受け尖閣群島に標柱を建て行政区域を明示すると共に、昭和二〇年七月同群島付近で疎開中に
遭難した遭難者の霊を供養する慰霊碑を建立する目的で別紙日程表により、第三協栄丸(一四・六四トン)と第三住 吉丸(五六・七三トン)を傭船して、一九六九年五月九日午後五時出港予定にて準備完了をした。
同日午後三時から桃林寺に於いて尖閣群島遭難者合同慰霊祭がおこなわれた。
−中略−
同日午前七時、魚釣島の南側二〇〇メートル沖の海上に到着投錨致しました。
魚釣島は尖閣群島五島其の他沖の北岩、沖の南岩、飛瀬の中最大の島で周囲は岩石で砂浜は殆んどなく岩石
が、切り立って海岸線の海の深さは一〇〇メートルもあろうかと思われる程黒潮で船を着ける箇所がなく大正十年頃 古賀善次さんが鰹製造業を経営していた工場の跡付近に僅かばかりの砂浜が見られ、船を着けることは困難で危 険な所である。然しながら小舟は着けるととが出来ます。
魚釣島の標柱と磯争中遭難者の慰霊碑を第二住吉丸より小舟に積みかえ標住と慰霊碑を建立致しまし
た。」
とある。
疎開船漂着後80人死亡、「尖閣の慰霊碑」建立 2002年7月10日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-102133-storytopic-86.html
【石垣】第二次世界大戦中、疎開船が爆撃され尖閣諸島に漂着した際に亡くなった多数の死没者の遺族や関係者
が、このほど石垣市新川に「尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑」を建立し、5日、碑の除幕式と慰霊祭を行った。
県内外から遺族が出席し、あらためて亡くなった家族のめい福を祈るとともに、恒久平和を誓い合った。
遺族会などによると、戦争末期の1944年7月、石垣島から台湾への疎開船2隻が米軍の爆撃を受け、1隻は炎上
沈没した。残り1隻でなんとか尖閣諸島魚釣島に漂着し集団生活を送ったが、食糧がなくなり餓死者も出た。この遭 難で約80人が亡くなり碑に刻銘されている。
石垣市は69年に魚釣島に慰霊碑を建立した。遺族も現地での慰霊祭を望んだが、遠隔地で領土問題も
絡み、これまで慰霊祭は石垣島内に仮の慰霊柱を立てて行ってきた。
慰霊祭で遺族を代表してあいさつに立った黒澤淳子さんは、当時12歳で、祖母と母、妹と弟の4人を亡くした。「もっ
て行き場のない悔しさ、悲しさ、どうにもならない憤りは忘れられない。一連の事件を後世に伝え、世界平和に寄与 する一助となると信じる」と思いを話した。
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