尖閣諸島の写真と地図集


中華民国が尖閣諸島を日本領と認めている感謝状




出典:産經Web96.9.23
感謝状の中で魚釣島のことを「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」と
日本名で記し、救助した島民を日本帝国沖縄県八重山郡石垣村雇玉代勢孫伴君」と明記している。
中華民国八年(大正八年)の冬、中国の福建省恵安県(現、泉州付近)の漁民、郭合順氏ら三十一人が遭難。
尖閣列島(和洋島=魚釣島)に漂着した。石垣村の玉代勢孫伴氏(後の助役)が熱心に看病し、
全員を生還させたことへの感謝状で、玉代氏の子孫がこれを保存していた。
感謝状は玉代勢氏のほか、石垣村長(当時)の豊川善佐氏、古賀善次氏、与那国島出身の
通訳で女性の松葉ロブナストさんら計七人に贈られた。現存するのは、玉代勢氏あてのものだけで、
同氏の長男、冨田孫秀氏が今年一月、自宅に飾っていたものを石垣市に寄贈した。




   感 謝 状

中華民国八年冬福建省恵安懸漁民

郭合順等三十一人■風遇難飄泊至

日本帝國沖縄縣八重山郡尖閣列島

内和洋島■

日本帝國八重山郡石垣村雇玉代勢

孫伴君熱心救護使得生還故国洵属

救災恤隣當仁不譲深堪感佩特贈斯

状以表謝悦



   中華民国駐長崎領事馮冕(印)

中華民国九年五月  二十日



− 読み下し文 − 
(漢文に詳しくない管理人の読み下しだから気をつけて読んで下さい。)  



  感謝状 

中華民国八年(大正8年、1919年)の冬、中華民国福建省恵安県の漁民
郭合順ら三十一人が風に■(遭?)い難に遇って飄泊(iひょうはく)し、
日本帝國(国)沖縄縣(県)八重山郡尖閣列島の和洋島(魚釣島の別名)に至る。
日本帝國八重山郡石垣村の雇(職員)玉代勢孫伴(たまよせそんはん君は
熱心に救護し、(彼らを)故国に生還するを得さしめた。洵に救災恤■(※01)に属す。
當に仁たるに譲らざるべし。深く感佩(※02かんぱい)に堪えず。特にこの状を贈りて
以て謝忱(※01)を表(あらわ)す。

   中華民国駐長崎領事馮冕(ひょう・めん)
中華民国九年(大正9年、1920年)五月二十日 



※01 恤隣の「恤」(じゅつ)はあわれむ、隣の文字は今回長崎領事馮冕の沖縄県知事に宛てた公電の訳文より明
    らかになった。(23.10.27)
※02 感佩(かんぱい)、深く心に感じて忘れないこと。
※03 忱の読みは「シン、まこと」。謝忱は辞典にはない。「表謝忱」は感謝のまことを表すという意味だろうか。
    (暫く謝悦ではないかと思っていたが、「謝悦」も辞典にはなく、そのままの「忱」に戻し訂正した。)



感謝状・写本
感謝状のコピーは色々なサイトに掲載してあるが、拡大するとにじみ或いはしみなどが多く、大きさも小さい為に読み
取りにくい。そこで私なりに補正してみた。できるだけ文字を正しく写すこと中心にしてしみなどを消して補正したので
細かく見ると上のコピーと異なるヶ所が何カ所もある。だがそれは文字をはっきりさせる為の補正で文字に変更を加
える為ではない。又私の無知により補正が却って間違っているかも知れない。その責任は私にある。併し意図的なも
のではないので最初に断っておきます。

Googleの地図には日本のサイトの写真に掲載された日本人が撮影した写真を、いかにも中国側に版権があるもの
かの様に細工して掲載しているものが数多くある。それは意図的なものだが、管理人にそういう意図は全くない。読
み易くするためだけの補正である。






                               



【感謝状の贈られた事情】 
 
 大正九年(1919年)の冬12月30日、魚釣島近海で中国人が遭難しているのを古賀善次氏が見つけてこれを全
員救出し、石垣にある八重山島庁(当時)に送り届けた。石垣村役場は総出で救援活動を行い、31名を無事本国に
帰還させた。このことに対して中華民国の長崎領事 
が感謝状を贈った。石垣市在住の元同市助役で郷土史家牧野清氏によると感謝状は玉代勢氏のほか、石垣村長 
(当時)の豊川善佐氏、古賀善次氏、与那国島出身の通訳松葉ロブナストさん計四人に贈られた。現存するのは、玉 
代勢氏あてたこの一枚だけである(※注)。同氏の長男、冨田孫秀氏が石垣市に90年頃に寄贈された。 



 また魚釣島の所有者古賀善次氏は、「それに、中国もかつてははっきりと日本領土と認めているんです。事実もあ 
りますよ。大正八年、中国福建省の漁船が、尖閣列沖合いで難破しました。そのとき、たまたま私の船がそれを発 
見し、難破船と三十一人の乗組員を助けて石垣島へつれてきて、手厚い保護をしました。私だけでなく、石垣の人
た 
ちも彼等を親切にもてなし、修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。翌年ですよ、中国政府から私をは
じ 
め石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。その宛名は、日本帝国沖縄県八重山郡島尖閣列島でしたよ。い 
ま中国がいっている魚釣台ではなく、ちゃんと尖閣列島になっています。個人からの手紙ではありません。政府とし 
ての感謝状なんです。ええ、いまでも保存してありますよ。」『現代』(講談社)第6巻第6号(1972年6月)142-147 
頁、「毛さん、佐藤さん、尖閣諸島は私の所有地≠ナす」(「れっきとした証拠」持ち出し名乗りあげた地主≠フ 
言い分) 





この感謝状の中で中華民国長崎領事は、魚釣島のことを 

「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」と 

記し、救助した島民を
「日本帝国沖縄県八重山郡石垣村雇玉代勢孫伴君」と明記している。

「和洋島」というのは魚釣島の日本名である。(牧野清著「尖閣諸島・日本領有の正当性」124・125ページ)
 つまり、当時の中国政府は、魚釣島のことを日本国の八重山郡尖閣列島内和洋島(魚釣島の日本名の一つ)と
間 
違いなく認識していたのである。今中国を代表する政府は、中華民国政府から中華人民共和国に替わっています 
が、政府が替わったからと言って、この認識をなかったと否定することを国際法は認めていません。 







中華民国感謝状に関する古賀善次の証言

『現代』(講談社)第6巻第6号(1972年6月)142-147頁

毛さん、佐藤さん、尖閣諸島は私の所有地≠ナす

「れっきとした証拠」持ち出し名乗りあげた地主≠フ言い分

     古賀善次 (こがぜんじ)
(那覇市在住)     

 それに、中国もかつてははっきりと日本領土と認めているんです。事実もありますよ。
 大正八年、中国福建省の漁船が、尖閣列沖合いで難破しました。そのとき、たまたま私の船がそれを 発見し、難破船と三十一人の乗組員を助けて石垣島へつれてきて、手厚い保護をしました。私だけでな く、石垣の人たちも彼等を親切にもてなし、修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。
 翌年ですよ、中国政府から私をはじめ石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。その宛名は、 日本帝国沖縄県八重山郡島尖閣列島でしたよ。いま中国がいっている魚釣台ではなく、ちゃんと尖閣 列島になっています。個人からの手紙ではありません。政府としての感謝状なんです。ええ、いまでも 保存してありますよ。









サピオに掲載された公電
サピオは、平成17年の10月12日号・10月26日号・11月9日号の三回に渡り、「尖閣諸島は日本の領土」決定的歴史
文書掴んだ、を連載した。

書庫の奥で埃をかぶっていた39枚の「手書き公電」

 ここに1枚の「感謝状」がある。贈り主は「中華民国駐長崎領事 馮冕」とあり、公印も
押されている(87ページ参照)。日付は中華民国9年(1920年、大正9年)5月20日。原
文はもちろん漢文だが、大意は次の通りだ。
 《中華民国八年冬、福建省恵安県の漁民、郭合順ら31人が嵐で遭難、漂流して、日
本帝國沖縄縣八重山郡尖閣列島内の和洋島(※魚釣島の別名)に漂着。
 日本帝国八重山郡石垣村雇用(※後の助役)・玉代勢孫伴君は親切に救護し、故国
に生還させてくれた。まことに義を見てめらわないものであり、深く感服し、この書状の
贈呈をもって感謝の気持ちを表すこととする》(傍点は筆者)
 同様の感謝状は、玉代勢孫伴のほか、当時の石垣村長・豊川善佐、通訳の松葉ロブ
ナスト、そして郭合順ら31名を救出した古賀善次にそれぞれ贈られたと言い伝えられて
いる。(※1)
 1996年1月、それまで私蔵されていた感謝状を玉代勢の子息が石垣市に寄贈したも
ので、現存するのは、この玉代勢宛ての1枚だけである。

−中略−

遭難救助の状況、当時の魚釣島になぜ古賀善次らが住み着いていたのか、漂着した
31名の福建省の漁民たちはどういう運命を辿ったのか、次々と疑問が湧いてきた。何よ
りも、当時の中華民国とはいえ、中国が「尖閣諸島は日本領」と認めている公文書の背
景を探ることは、現在でも日中両国で論争が続く尖閣領有問題に重要な一石を投じるこ
とになると考えた。以来、筆者は尖閣諸島に関係する資料が多く保存されている石垣島
や与那国島に足繁ぐ通うことになったのだ。
 思いがけぬ機会で、重要な資料を手にすることができたのは今年7月だった。何度目
かの石垣市役所を訪れ、文書課に保存されている古い資料をあさりまくった末のこと
だ。
 棚の奥から埃を被った39枚に及ぶ(大正九年一月 遭難支那人救助●●●(※この3
文字読解不能)ノ件(福州人)》と筆書きされた外務省用箋ひと綴りが見つかったのだ。
文書課長も「20数年の市役所勤務のなかでこの一件綴りを見るのは初めて」と驚いた。
 全て手書き、それもほとんどが筆書き。遭難者の調書を始め、救出から保護、本国送
還に至るまでの数か月間、内務省、外務省、沖縄県知事、中国駐長崎総領事、在中国
日本公使らの間で頻繁にやり取りされた公電の記録であった。


















−中略−
詳細に記された「救護費用」の内訳

救助された郭合順ら31名が古賀善次の所有船で魚釣島から石垣島に向かったのは、
1920年1月10日のことである。
 石垣村長の豊川善佐は慌てて浜に向かった。先ほど漁師のひとりが、尖閣から漂流
民が到着したことを知らせてきたからだ。
 浜に着くと旧知の古賀善次が困惑顔をして豊川に一部始終を話し始めた。日頃のん
びりとした石垣村に衝撃が走り、豊川は俄然多忙を極めることになった。沖縄縣知車宛
に事情を報告しなければならないし、そのためには郭合順らの事情聴取もしなくてはな
らない。幸いにも与那国島には白系ロシア人との混血で、中国語に堪能な松葉ロブナ
ストが住んでいた。早速呼び出して通訳兼世話係とした。
 彼ら漂流民の健康状態も気にかかった。恐るべきは「風気」である。現代でいうマラリ
アのことで、当時八重山地域の風土病だった。豊川は玉代勢孫伴(たままよせそんば
ん、前号で触れた「感謝状」の受取人の1人)ら、役場の人々を走らせた。31名を収容す
る家の手配、健康診断を行なう医者。腹を減らした彼らに提供する米飯の準備は、豊川
ら役場職員の妻たちが駆り出された。
 こうして漂流民の石垣滞在は10日間に及んだ。その間、福州漁民遭難の一件は沖縄
転知事から内務大臣、外務大臣、そして引き受け方である中華民国長崎総領事の間で
公電が飛び交うことになる。最終的に郭合順ら31名が大阪商船八重山丸で台湾の基隆
に向けて帰国の途についたのは1月21日のことであった。
 その後の2月26日、豊川善佐は外務省宛に「漂着支那人救護費用請求書」を提出し
ている。
 諸費計算書の総額は《六百弐拾七圓六拾七銭也》。
 公電にはその内訳も詳細に記載されている(読みやすさを考慮してアラビア数字表
記)。
●旅館宿泊料2日分 62円(1人1日当たり1円)
●食料28食分 130円20銭(大正8年1月12日朝〜21日朝まで。1人1食につき15銭)
●借家料 29円
●八重山・基隆問3等汽船賃および通行税 139円56銭
●尖閣諸島におけ11日間分の食費136円40銭(1人1日40銭)
●魚釣島から石垣島への護送費 124円(I人4円)
 ちなみに、筆者が魚釣島上陸の際にチャーターした舟代は往復で50万円。124円の護
送費は現代の貨幣価値でいえば片道約60万円。少々高額に思えるが、この金額を石
垣村に請求した古賀善次も父・辰四郎同様になかなかの商売人だったのかもしれな
い。
 だが、当時の石垣村にとって600円余りの立て替え払いは村財政に大きな負担となっ
たことは否めない。現在でこそ観光収入で潤う石垣市だが、当時の状況は豊かどころ
か、貧困状態にあった。豊川善佐は止むに止まれぬ思いで日本政府に支払いを請求し
たのであろう。
 だが、この救護費用の支払いを巡って日中両国政府の間で事態は紛糾する。次回
は、発掘された39枚の公電記録に記された「事件の?末」を解き明かしていく。     
(平成17年の10月12日号)












サイト「尖閣諸島」に掲載されている公文書

上の「サピオ」の公電は沖縄県に保管されていたもので
あるが、こちらのものは外務省のものと思われる。是非
このサイトを訪ねられて全文を見て頂きたいと思います。


◎ 高親第二〇〇号
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/wreck-1919/1920-01-31.html


〈現代文へ読み下し〉
高親第200号
  大正9年1月21日
     沖縄縣知事・川越壮介

 内務大臣・床次竹二郎殿

  支那人漂着に関する件
本月十六日、電報致し置き候(そうろう)、支那福州漁民海難に関する状況左記の通りに之れ有り候條、此の段及び
報告候也(なり)。

    記
一、遭難者住所氏名
 支那国福建省泉洲府恵安縣白奇郷
  船主並船長  郭 合順 38才
  舵   手   郭 得勝 50才
            郭 綉琉 16才
            郭 心法 14才
           郭 細喝 16才
           張 細模 16才
          郭 豚頭 11才
           郭 圓目 20才
           郭 草鞋 38才
           郭 鳥匏 18才
           郭 矮棟 41才
           郭  和 42才
           郭 主直 22才
           鄭 馬送 52才
           郭 夭夫 54才
           郭  鵠 11才
           郭 細北 42才
           郭 喝成 20才
           郭 細棟 36才
           郭 馬腰 11才
           郭 扁頭 40才
           郭 細候 35才
           郭 秋挿 11才
           郭 凹鼻 46才
           江  頭 45才
           郭 承老 48才
           郭 董大 55才
           郭 九六 60才
           郭 寶法 11才
           郭  某 11才

二、遭難及び救護の状況
 前項31名(実際は30名。1名は書き漏れか)の者は、昨年11月下旬舩名(船名)「金合丸」(長さ52尺、巾18
尺)帆船に乗組み、福建省を発し、浙江省方面に出稼ぎ漁業中、昨年12月26日に暴風雨に遭遇し、舩体(船体)
風波の為め動揺激しく、転覆の恐れあるにより之を避ける為め帆柱を切断せしにより、全く航行の自由を失し、唯自
然に任せ、波涛に翻弄せられ、漂流しつつありしかば、同月30日夕刻に至り、(沖縄県)管内の八重山郡石垣村に
属する尖閣列島の内、和平島(魚釣島の別名)と称する小孤島に漂着したるを以て、搭載せる短艇三隻を下し、全員
分乗して上陸することを得たりしか、一同は既に糧食盡き、飢餓に迫り居りたるも、幸に同島には古賀善次なるもの
の漁業事務所ありて、漁夫其の他三十余名の居留民(※1)ありしかば、其の貯えある食料を分与せられ、救護を受
け続けて、天候不良なる為め其の侭(まま)事務所の救助を受け滞在し、本月十日に至り天候漸く恢復(回復)せし
を以って、古賀の所有漁船に依り、遭難者全部を石垣村役場へ輸送し来り、爾来同村に於いて旅舎(旅館)に収容
保護中なり。而して彼等の乗組舩(船)は和平島上陸後風波の為め破碎せられ、船具(船具)船躰(船体)共全部流
失したりと云う。

三、遭難者の處置(処置)
 遭難者は目下、石垣村役場に於て救護を為し、一面在長崎支那領事へ引き取り方を交渉中なり。
  了。




[注]
※1居留民 現代で言う所の「居留民」のことではない。出稼ぎ人のことである。尖閣列島に居たのは沖縄県人であ
る。現在で言う「居留民」は、内国人との同居を許さない国が国内に指定した居留地に住む外国人のことを言う。



[原文]
高親第二〇〇号

大正九年一月廿一日 沖縄縣知事・川越壮介
内務大臣・床次竹二郎殿

支那人漂着ニ関スル件
本月十六日、電報致置候支那福州漁民、海難ニ関スル状況左記ノ通ニ有之候條此段及報告候也。
    記
一 遭難者住所氏名
支那國福建省泉洲府恵安縣白奇郷 
     船主並船長 郭 合順 三十八年
     舵  手 郭 得勝 五十 年
           郭 綉琉 十六 年
           郭 心法 十四 年
           郭 細喝 十六 年
           張 細模 十六 年
           郭 豚頭 十一 年
           郭 圓目 二十 年
           郭 草鞋 三十八年
           郭 鳥匏 十八 年
           郭 矮棟 四十一年
           郭  和 四十二年
           郭 主直 二十二年
           鄭 馬送 五十二年
           郭 夭夫 五十四年
           郭  鵠 十一 年
           郭 細北 四十二年
           郭 喝成 二十 年
           郭 細棟 三十六年
           郭 馬腰 十一 年
           郭 扁頭 四十 年
           郭 細候 三十五年
           郭 秋挿 十一 年
           郭 凹鼻 四十六年
           江  頭 四十五年
           郭 承老 四十八年
           郭 董大 五十五年
           郭 九六 六十 年
           郭 寶法 十一 年
           郭  某 十一 年

二 遭難及救護ノ状況
 前項三十一名ノ者ハ客年十一月下旬舩名金合丸(長五十二尺巾十八尺)帆舩ニ乗組ミ福建省ヲ發シ浙江省方面
ニ出稼漁業中客年十二月二十六日暴風雨ニ遭遇シ舩躰風波ノ為メ動揺激シク轉覆ノ虞アルヨリ之ヲ避クル為メ帆柱
ヲ切断セシニヨリ全ク航行ノ自由ヲ失シ唯自然ニ任セ波涛ニ翻弄セラレ漂流シツヽアリシカ仝月三十日夕刻ニ至リ管
内八重山郡石垣村掛尖閣列島ノ内和平島ト稱スル小孤島ニ漂着シタルヲ以テ搭載セル短艇三隻ヲ下シ全員分乗シ
テ上陸スルコトヲ得タリシカ一同ハ既ニ糧食盡キ飢餓ニ迫リ居リタルモ幸ニ同島ニハ古賀善次ナルモノノ漁業事務所
アリテ漁夫其ノ他三十餘名ノ居留民アリシカハ其貯ヽアル食料ヲ分與セラレ救護ヲ受ケ續テ天候不良ナル為メ其侭
事務所ノ救助ヲ受ケ滞在シ本月十日ニ至リ天候漸ク恢復セシヲ以テ古賀ノ所有漁船ニ依リ遭難者全部ヲ石垣村役
場ヽ輸送シ来リ爾来同村ニ於テ旅舎ニ収容保護中ナリ而シテ彼等ノ乗組舩ハ和平島上陸後風波ノ為メ破碎セラレ
船具船躰共全部流失シタリト云フ

三遭難者ノ處置
 遭難者ハ目下石垣村役場ニ於テ救護ヲ為シ一面在長崎支那領事ヽ引取方交渉中ナリ
  了


















高親第二〇〇號
  大正九年一月廿一日
     沖縄縣知事・川越壮介

 内務大臣・床次竹二郎殿

  支那人漂着ニ関スル件
本月十六日電報致置候支那福州漁民海
難ニ関スル状況左記ノ通ニ有之候條此段
及報告候也。
    記
一遭難者住所氏名
 支那國福建省泉洲府恵安縣白奇郷






   船主並船長 郭 合順 三十八年
   舵   手 郭 得勝 五十 年
         郭 綉琉 十六 年
         郭 心法 十四 年
         郭 細喝 十六 年
         張 細模 十六 年
         郭 豚頭 十一 年
         郭 圓目 二十 年
         郭 草鞋 三十八年
         郭 鳥匏 十八 年
         郭 矮棟 四十一年
         郭  和 四十二年
         郭 主直 二十二年









         鄭 馬送 五十二年
         郭 夭夫 五十四年
         郭  鵠 十一 年
         郭 細北 四十二年
         郭 喝成 二十 年
         郭 細棟 三十六年
         郭 馬腰 十一 年
         郭 扁頭 四十 年
         郭 細候 三十五年
         郭 秋挿 十一 年
         郭 凹鼻 四十六年
         江  頭 四十五年
         郭 承老 四十八年










         郭 董大 五十五年
         郭 九六 六十 年
         郭 寶法 十一 年
         郭  某 十一 年
二遭難及救護ノ状況
 前項三十一名ノ者ハ客年十一月下旬舩名金合
 丸(長五十二尺巾十八尺)帆舩ニ乗組ミ福建省ヲ
 發シ浙江省方面ニ出稼漁業中客年十二月
 二十六日暴風雨ニ遭遇シ舩躰風波ノ為メ動揺
 激シク轉覆ノ虞アルヨリ之ヲ避クル為メ帆
 柱ヲ切断セシニヨリ全ク航行ノ自由ヲ失シ
 唯自然ニ任セ波涛ニ翻弄セラレ漂流シツヽ
 アリシカ仝月三十日夕刻ニ至リ管内八重山






 郡石垣村掛尖閣列島ノ内和平島ト稱スル小
 孤島ニ漂着シタルヲ以テ搭載セル短艇三隻
 ヲ下シ全員分乗シテ上陸スルコトヲ得タリ
 シカ一同ハ既ニ糧食盡キ飢餓ニ迫リ居リ
 タルモ幸ニ同島ニハ古賀善次ナルモノヽ
 漁業事務所アリテ漁夫其ノ他三十餘名
 ノ居留民アリシカハ其貯ヽアル食料ヲ分與
 セラレ救護ヲ受ケ續テ天候不良ナル為メ
 其侭事務所ノ救助ヲ受ケ滞在シ本月十
 日ニ至リ天候漸ク恢復セシヲ以テ古賀ノ所
 有漁船ニ依リ遭難者全部ヲ石垣村役場ヽ
 輸送シ来リ爾来同村ニ於テ旅舎ニ収容保
 護中ナリ而シテ彼等ノ乗組舩ハ和平島









 上陸後風波ノ為メ破碎セラレ船具船躰共全
 部流失シタリト云フ 
 
三遭難者ノ處置
 遭難者ハ目下石垣村役場ニ於テ救護ヲ為
 シ一面在長崎支那領事ヽ引取方交渉中
ナリ 
                    了



三の「遭難者ノ處置」において「遭難者ハ目下石垣村役場ニ於テ救護ヲ為シ一面在長崎支那
領事ヽ引取方交渉中ナリ」とあり、この遭難に対する報告が既に駐長崎中華民国領事にされ
ていることが分かる。つまり馮冕(ひょう・めん)駐長崎中華民国領事の感謝状の背景とこの感
謝状が偽物ではないことがはっきりとしたのである。






次はその馮冕駐長崎中華民国領事からの沖縄県知事宛ての公電を外務省が訳して沖縄県
知事に送付したものである。馮冕領事は遭難者の氏名と救出に携わった人々の氏名を書いた
明細書を受け取ったこと。そしてこの救出のことを東京駐在公使館に報告し、救出にかかった
費用に対し一日あて二〇〇円を石垣村役場慈善事業基金に寄贈するよう申請していること、
また救出に携わった関係者に感謝状を七通を郵送することを明らかにしている。つまりあの感
謝状にある馮冕(ひょう・めん)駐長崎中華民国領事の「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内
和洋山(魚釣島の別名)」の認識は100%真実であるということである。




駐長崎領事館公函第三伍号訳文

拝復 前ニ大正九年四月拾弐日附地第一一五三ノ一号貴信ニテ福建省恵安県ノ遭難漁民郭合順■(他)三十一名
ノ姓名並ニ当地救護ニ従事セシ人員氏名明細書各一部ヲ御送付相成リ右ハ何レモ領悉仕リ候査スルニ今回該漁
民■遭難飄泊シ饑寒交ニ逼ルノ際ニ当リ石垣村長■(他)ノ熱心ナル救護ヲ受ケ並ニ村役場公款内ヨリ宿食各費ヲ
立替セラレ故国ニ生還スルヲ得シメラレ候ハ只ニ身ニ其ノ恵ヲ受ケタルモノ徳ヲ感ジ忘ル能ハザルノミナラズ本領事
ニ於テモ亦深ク欽佩仕リ今般在京駐在公使館ニ稟請シテ日金弐百圓ヲ支出シ石垣村役場慈善事業基金ニ寄贈シ
以テ救災?(※)鄰ノ雅意ニ酬イ尚別ニ本領事ヨリモ救護ニ従事セシ人員ニ感謝状各一部宛ヲ贈給シ以テ謝意ヲ表シ
義挙ヲ彰ス事ト相成茲ニ該金弐百圓並ビニ感謝状七通ヲ郵送致候ニ付御査取ノ上該役場ヘ御送附被下度尚右領
収状ハ速ニ本館ニ御送付被下度候  敬具
 九年五月廿二日
         馮長崎駐在支那領事
沖縄県知事宛 


【管理人:現代文に読み下し】
拝復 前(さき)に大正9年4月12日附、地第1153の1号貴信にて、福建省恵安県の遭難漁民郭(かく)合順等三
十一名の姓名並びに当地救護に従事せし人員氏名明細書各一部を御送付相成り、右は何れも領悉仕り候(そうろ
う)。査する(しらべる)に、今回該漁民等遭難飄泊(ひょうはく)し、饑寒(きかん、飢えと寒さ)交(こもごも)に逼(せ
ま)るの際に当り、石垣村長等の熱心なる救護を受け、並びに村役場公款(予算)内より、宿食各費を立て替えせら
れ、故国に生還するを得しめられ候(そうろう)は、只(ただ)に身に其の恵を受けたるもの徳を感じ忘る能はざるのみ
ならず、本領事に於ても亦深く欽佩(キンパイ、謹んで敬い忘れない)仕(つかまつ)り、今般在京駐在公使館に稟請
(りんせい、上部機関に申し出る)して日金200円を支出し、石垣村役場慈善事業基金に寄贈し、以って救災?(ジュ
ツ、あわれむ)鄰の雅意に酬(むく)い、尚お別に本領事よりも、救護に従事せし人員に感謝状各一部宛を贈給し、以
って謝意を表(あらわ)し、義挙を彰(あらわ)す事と相成(あいな)り、茲(ここ)に該金200円並びに感謝状七通を郵
送致は候に付き、御査取の上、該役場ヘ御送附下され度(た)し。尚お右領収状は速やかに本館(長崎領事館)に
御送付下され度く候。  敬具
 (民国)9年(大正9年、1920年)5月22日




駐長崎領事館公函第三伍号訳文の1枚目

駐長崎領事館公函第三伍号訳文
拝復 前ニ大正九年四月拾弐日附地第一一五
三ノ一号貴信ニテ福建省恵安県ノ遭難
漁民郭合順■(他)三十一名ノ姓名並ニ当地救
護ニ従事セシ人員氏名明細書各一部
ヲ御送付相成リ右ハ何レモ領悉仕リ候
査スルニ今回該漁民■遭難飄泊シ饑寒
交ニ逼ルノ際ニ当リ石垣村長■(他)ノ熱心ナル救



駐長崎領事館公函第三伍号訳文の2枚目

護ヲ受ケ並ニ村役場公款内ヨリ宿食各費
ヲ立替せられ故国ニ生還スルヲ得シメラレ候
ハ只ニ身ニ其ノ恵ヲ受ケタルモノ徳ヲ感ジ忘ル能
ハザルノミナラズ本領事ニ於テモ亦深ク欽佩仕リ
今般在京駐在公使館ニ稟請シテ日金弐
百圓ヲ支出シ石垣村役場慈善事業基
金ニ寄贈シ以テ救災?(※)鄰ノ雅意ニ酬
イ尚別ニ本領事ヨリモ救護ニ







駐長崎領事館公函第三伍号訳文の3枚目

従事セシ人員ニ感謝状各一部宛ヲ贈給シ
以テ謝意ヲ表シ義挙ヲ彰ス事ト相成
茲ニ該金弐百圓並ビニ感謝状七通ヲ郵送
致候ニ付御査取ノ上該役場ヘ御送附
被下度尚右領収状ハ速ニ本館ニ御送付被下
度候  敬具
 九年五月廿二日
         馮長崎駐在支那領事
沖縄県知事宛


























































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