尖閣諸島の写真と地図集


久場島写真

目次

題  名
出  典
01 外務省文化局「尖閣諸島について
02
同上
03 地学雑誌・第12輯143巻・明治33年11月
04 黄尾島波止場上涯下
同上
05 黄尾島波止場
同上
06 黄尾島千歳嶺西面 不明
07 地学雑誌・第13輯第1版・明治34年1月
08 黄尾島中榕樹下の信天翁(ガジュマル下のアホウドリ) 地学雑誌・第13輯第2版・明治34年2月
09 黄尾島の溝川原と稱する谷
同上
10 久場島全景写真(仮題) 海保航空基地の業務画像
11 「空からみた尖閣諸島 赤尾嶼・黄尾嶼」
12
同上
13 <尖閣諸島文献資料編纂会>
14 南側より、久場島ほぼ全景
同上
15 写真元:第11管区管区海上保安庁
16 尖閣列島の久場島(黄尾嶼)近くにいた中国漁船
アサヒグラフ・昭和53年5月5日号
17 上画像の久場島部分 同上
18 調査釣行結果
19 高良鉄夫著「沖縄の秘境を探る」
20 久場島空中写真(仮題) 国土地理院
21 島北側に広がる溶岩台地・久場島 <尖閣諸島文献資料編纂会>
22 久場島(仮題) 自由民主党前衆議院議員 谷本たつや
23 溶岩のような岩礁とクバの緑が対照的だ 仲間均著「鬼気迫る尖閣諸島の現状」
24
25



久場島地名図










久場島01

原題:海から見た久場島
外務省文化局「尖閣諸島について」9頁・昭和47













久場島02

同上部分

管理人:
「これは、もしかして」とふと気が付いて一部分を拡大してみたらどう見ても水の流れである。
久場島には水がないと聞いていたが、
この映像が本物だとしたら大雨などの後には水流が出来るのかも知れない。




宮島幹之助著「沖黄尾島(承前)」の第二章地理及地質(地學雑誌第12輯第144巻、 明治33年12月)に次の記事があ
る。「一般に本島の隆起其東北面に於て斜度急にして南西面に緩なり。本島には一の湧水又は流水なし、降雨の
際、水の流るヽや、多くは南西面に集まりて海に注ぐを以て、此面の渓間には、土壤全く洗去られ、岩塊礫石の累々
たるを見る。」692頁。どうやら私の推測通り確かに水流であるようだ。


























久場島03

明治時代の久場島

原題:黄尾嶋西南側古賀村の人家
宮島幹之助撮影

出典:地学雑誌・第12輯143巻・645頁・明治33年11月
















久場島04


原題:黄尾島波止場上涯下
宮島幹之助撮影・黄尾嶼
地学雑誌・第12輯143巻・645頁・治33年11月























久場島05


原題:黄尾島波止場
宮島幹之助撮影・黄尾嶼
地学雑誌・第12輯143巻・645頁・明治33年11月


全島は之れ岩塊の相集りて海上にあらはれたるにすきず。
從て海岸線に出入少くして絶壁多し、殊に島の西北面と東
南面とは極めて嶮にして、直立六十尺乃至八十尺の絶壁な
り、故に容易に攀つ可からず、西南面の一部東岬に近き處は
やヽ峻なれとも、過半一帯は低くして上陸するに適す。沿岸
は總て巨岩よりなり、舟を寄す可き港灣なし。唯一ヶ處岩礁
の間に端艇を入るヽに足る處あり、在島者の「ハトニハ」泊と
呼ぶは乃ち是にして、西南岸の中央より西方に偏在す。外方
には一列の岩礁あり、其中央に長六間許の岩の切レ目あり
て、艇の出入口をなす。然れとも岩は低くして充分波を遮る
に足らず。且つ碇泊所内も淺くして繋舟に便ならず。中央に
突出せる岩礁は長方形をなし、恰も天然の棧橋をなす。茲よ
り陸上十敷間にして急に十五尺余の高臺となる。其下に移
住者の茅舎あり(前號挿入の寫眞圖参照

宮島幹之助著「沖黄尾島(承前)」の第二章地理及地質(地學雑誌第12輯第144巻、 明治33年12月)691頁





















久場島06


原題:黄尾島千歳嶺西面
宮島幹之助























久場島07

原題:仝上北隅の海岸(白く見ゆるは信天翁の骨なり)

黄尾嶋北隅の海岸・
地学雑誌・第13輯第1版145号・明治34年1月






















久場島08


原題:黄尾島中榕樹下の信天翁
(ガジュマル下のアホウドリ)

地学雑誌・第13輯第2版・明治34年2月





























久場島09

原題:黄尾島の溝川原と稱する谷
地学雑誌第13輯第2版
明治34年

溝川原の位置は最上記の久場島の地名図を見て下さい。
信天山(この左の丘・105m)の南方から西に向かう谷です。



















久場島10


久場島全景写真(仮題)
出典:海保航空基地の業務画像
(原画は暗かったので少し明るくしています)





















久場島11

原題:黄尾嶼の遠景.北東の方向より望む 
出典:空からみた尖閣諸島 赤尾嶼・黄尾嶼






























久場島12

原題:東北東の方向より臨む  
出典:空からみた尖閣諸島 赤尾嶼・黄尾嶼






















久場島13


原題:久場島(黄尾嶼)近景
<尖閣諸島文献資料編纂会>からの引用です。

【本文記事】 島を被うビロウが、沖縄の人々に古くから呼ばれていた、
「クバ(ビロウ)島」という呼名を彷彿させます。
1980年撮影 写真は新納氏提供
http://pinacles.zouri.jp/senkakushotounituite/senkaku3.htm





















久場島14


南側より、久場島ほぼ全景
これも尖閣諸島文献資料編纂会(尖閣諸島について・尖閣の島々3)からの引用です。
大きいですが視覚的にはより全体像が詳細に感じられると思います。

【本文記事】写真4枚を重ね合わせました。船より見える久場島のほぼ全景です。
見辛いかも知れませんが、島の感じを掴めると思います。御了承下さい
1980年撮影 写真は新納氏提供


グーグルに<尖閣諸島文献資料編纂会>の主幹pinnaclesさんでない他の方がこの写真を掲載さ
れています。この際この写真がpinnaclesさんの努力により発表されたものであることを明らかにして
おきたいと思います。pinnaclesさんの真摯な努力と孤軍奮闘に対し国民の一人として頭が下がりま
す。氏の努力により尖閣諸島の自然が多くの国民の目に見えるようになってきました。グーグルで
はこういう日本人の努力による写真を中国人が勝手に掲載しそれで中国の領土であることを主張す
ることを容認しています。これは民主主義でも何でもありません。将来的に数による横暴、力による
横暴という帝国主義を復活させ世界を混乱させる可能性があります。グーグルのこの姿勢は改めら
れるべきです。





地図と照らし合わせると次のようになるかと思います。

+++++++++++++++++千歳山+++信天山+++++永康山____名前の解らない丘
_________117m____________________105m____________________80m余______________54m






























久場島15


久場島全景写真(仮題)  
写真元:第11管区管区海上保安庁






























久場島16


原題:尖閣列島の久場島(黄尾嶼)近くにいた中国漁船(4月14日午前10時頃)
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号


中国漁船とあるがこのころ尖閣諸島近海に不法に出入りしていたのは殆どが台湾の漁民である。正しくは台湾の漁
船である。台湾の漁民が尖閣諸島近海に出入りするのは歴史的背景がある。戦前、台湾は日本の領土である。日
清戦争後に日本と清国との間で条約が結ばれ国際法上正式に台湾は日本の領有するところとなり、日本人は真摯
に台湾の近代化と日本化を進めます。その真摯さは今も当時を知る台湾人が尊敬していることからも明らかです。台
湾に移り住んだ日本人が尖閣諸島で漁業を盛ん行うようになると、それまで尖閣諸島近海の漁業を開いた沖縄県の
漁民は閉め出され、政府は尖閣近海の漁業権を台湾に移します。それは戦後の沖縄や北海道開発のため特別立
法がなされたのと同じです。その関係で戦後も台湾漁民はこの地域での違法操業を続けることになります。これを黙
認した温情が逆にあだとなるのです。現在中華人民共和国などが昔から尖閣諸島は台湾漁民が漁業をしていたの
だと反論しますが、この地域の漁業はエンジン付きの漁船の誕生で始めて可能になったものであり、それは台湾に
移り住んだ日本人よって開発されたものです。戦前における台湾の尖閣諸島近海における漁業は開発したのも維持
したのも日本国民です。開発したのは台湾に移り住んだ日本人であり、後々これを維持操業したのは日本国民とし
ての台湾人です。日本国民としての台湾人とは台湾現地民・中国人・日本人のことです。














久場島17


出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号の部分図

これは上図の久場島部分を私が勝手に水平にしたものです。
これもあちこちで利用されていますが、出典はアサヒグラフの昭和53年5月5日号です。





























久場島18


原題:黄尾嶼
http://marinechallenger.kir.jp/chouka/tokara/2000/2000.htm (調査釣行結果)より




































久場島19


原題:南方海上から見た黄尾島
出典:高良鉄夫著「沖縄の秘境を探る」
































久場島20


久場島航空写真(仮題)  
出典:国土地理院 (空中写真)久場島 
1999年7月 国土地理院 1/10000 





































久場島21


島北側に広がる溶岩台地・久場島
尖閣諸島文献資料編纂会(尖閣諸島について・尖閣の島々3)




























久場島22


自由民主党前衆議院議員 谷本たつやのホームページより

































久場島23


溶岩のような岩礁とクバの緑が対照的だ
仲間均「鬼気迫る尖閣諸島の現状」32ページ












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【管理人】 以下の写真は沖縄県公文書館の琉球政府関係写真資料である。
この写真には地名がない。ただ島の形がやさしいことから久場島であろうと推察した。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/toppage/flm_archas_syasin.html









沖縄県公文書館−琉球政府関係写真資料
−尖閣諸島篇−
1970年 7月−琉球政府の警告板標識柱建立056568












沖縄県公文書館−琉球政府関係写真資料
−尖閣諸島篇−
1970年 7月−琉球政府の警告板標識柱建立056568














沖縄県公文書館−琉球政府関係写真資料
−尖閣諸島篇−
1970年 7月−琉球政府の警告板標識柱建立056568










沖縄県公文書館−琉球政府関係写真資料
−尖閣諸島篇−
1970年 7月−琉球政府の警告板標識柱建立056568










沖縄県公文書館−琉球政府関係写真資料
−尖閣諸島篇−
1970年 7月−琉球政府の警告板標識柱建立056568














沖縄県公文書館−琉球政府関係写真資料
−尖閣諸島篇−
1970年 7月−琉球政府の警告板標識柱建立056568













沖縄県公文書館−琉球政府関係写真資料
−尖閣諸島篇−
1970年 7月−琉球政府の警告板標識柱建立056568













沖縄県公文書館−琉球政府関係写真資料
−尖閣諸島篇−
1970年 7月−琉球政府の警告板標識柱建立056568














沖縄県公文書館−琉球政府関係写真資料
−尖閣諸島篇−
1970年 7月−琉球政府の警告板標識柱建立056568
















沖縄県公文書館−琉球政府関係写真資料
−尖閣諸島篇−
1970年 7月−琉球政府の警告板標識柱建立056568

















沖縄県公文書館−琉球政府関係写真資料
−尖閣諸島篇−
1970年 7月−琉球政府の警告板標識柱建立056568











沖縄県公文書館−琉球政府関係写真資料
−尖閣諸島篇−
1970年 7月−琉球政府の警告板標識柱建立056568










沖縄県公文書館−琉球政府関係写真資料
−尖閣諸島篇−
1970年 7月−琉球政府の警告板標識柱建立056568




































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